館山リノベーションスクールはじめて物語【第4章】風に吹かれて
(「第3章」のつづき)
【第4章】風に吹かれて
ひどく暑かった2019年の夏。
雇用商工課メンバーの開拓により対象物件候補が出揃ってきて8月が終わりました。
11月と12月の事前講演会の日程と講演者、翌年1月のスクール開催日程も決まりました。
スクールマスター青木純さんが来館し、今年は残暑も厳しいね、とTシャツをぐっしょりと濡らして対象物件をひとまわりしたのは9月5日。
個性的な対象物件も決まりました。
次回11月の事前講演会でお会いしましょう、と青木さん達が館山を去った4日後、その際には、予想もしていないことが起きたのでした。
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9月9日、未明。
瞬間最大風速50mを超える地域でも未曾有の台風15号が南房総を直撃したのです。

自宅の雨戸の音が普通じゃないと目が覚めた。天気アプリを見て自分達が渦の 真ん中にいることを認識した瞬間。
翌朝の市内は、倒壊した建築物、電柱、飛散したガレキ。一夜にして市内の風景を変え、私達はいわゆる被災者となりました。

tu.ne.Hostel裏手の木が倒れていました

tu.ne.Hostel玄関前。南側に面する建物のシャッターは軒並み吹き飛ばされていました

ミナトバラックスの上層階の床は横殴りの雨でびっしょり。

地域のシンボル樹齢1000年ともいわれる「サイカチの木」も倒れました。
館山市街地でも3日から1週間程度の停電。幸いにして直接的な人的被害の少ない災害でしたので、市内の人々は困惑しながらもそれぞれに助けあいながら穏やかに復旧に向き合っていたように思います。
被災から2日後、まだ報道もたどり着いておらず、災害規模が明らかではない時期。
館山に突然やってきてくださったのは青木純さんでした。
ブルーシートとおにぎりとコロッケと、バーベキュー用の炭などの支援物資を抱えて。

一足早く停電が開けたtu.ne.Hostelは救援物資のステーション、シャワー提供の役割を担っていました。
さらには2日後にも訪ねて来てくれました。
「今はリノベーションスクールのことは脇に置いておこう。大変だと思うけど、くれぐれもみなさん無理せずお身体に気をつけて」
青木さんは東京に戻り、館山にいる私たちの意向を待ってくださいました。
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被災した当時、みんな「復旧ハイ」になっていました。
疲れも知らずに動き回っていました。
自分が誰かのためにできる事を探しあっていました。
意外と笑顔が多くて、被災前より相対的に周囲には笑顔が増えた気がします。

ミナトバラックスでは住人たちが停電の中、ろうそくとランタンで身を寄せ合って過ごしていました。
無事を確認しあって嬉しくて、ちょっとした優しさに触れる事が嬉しくて、電気が戻った事が嬉しくて、温かいシャワーが浴びれるようになった事が嬉しくて。

停電で冷蔵庫の食材がダメになる前に、みんなでバーベキュー。子ども達の笑顔が沈みがちな雰囲気を癒してくれました。
大きな被害を受けたけど、このまちに住む人たちは、このまちでの暮らしの大切さを確認する事ができたように思います。
災害前、なんとなくあった地元出身者と移住者の垣根も薄くなった気もします。

災害発生から1週間たった頃。大家の学校の講義に向かう途中で。
停電時に貴重だったキンキンに冷えたペットボトルの水を配り、受け取り、喜びを共有する間柄には、この地域で何年いた人間かなんて関係ない話。
都市部とのパイプを持つ移住者だからできる支援もあったし、古くからの地縁を持つ者だからできる支援もありました。
全国各地からボランティアの方が多数来てくださいました。

全国から来たボランティアの皆様とtu.ne.Hostelで朝食会を開きました

自衛隊の救援車両もたくさん来てくださっていました。
災害を機に、館山の交流人口・関係人口になった方も多くいらっしゃいます。
災害がもたらしたのは、このまちを再び取り戻そう、ともに未来に向かおうという希望の共有でもあったのではないでしょうか。
奇しくも災害によりシビックプライドが高まった館山は、これから強くなる。
そう感じた復旧復興の日々でした。
(「第5章」につづく)